日記・コラム・つぶやき

アインシュタイン稲田くんに感じる希望と社会変革の実践的手法について

いま軽妙な漫才で聴衆をわかせるアインシュタイン稲田くんを見ている。そして思う。差別撲滅を志向した政治活動より、彼のほうがよほど社会を変えていないだろうかと。

差別撲滅デモを否定する意図はまったくないが、しかし、その活動がこの日本においてどれほど有効であったか。その実効性を鑑みる時、ぼくはどうしても懐疑心を抱かざるを得ない。そして聴衆を爆笑させる稲田くんにこそ希望を感じる。

彼は(自虐しているように)とても独特な風貌をしている。しかし、ともかくも漫才がとても面白いから、次第に存在全体としての自分を周りに受け入れさせてしまう。

社会変革とはなんであろうか。差別撲滅を叫ぶわきで、稲田くんは自分を社会に浸透させつつある。奇異の目を払拭しつつある。

社会を変えようとするのではなく、自分を認めさせてしまう。

それは結果的に社会変革の小さくも確実な一歩といえるのじゃないか。そしてもしそれを一人ひとりができたなら、社会から差別はなくなるのかもしれない。いや、差別を感じる人間の性質は一切変わらないのに、差別的な空気が減ってゆく。そこに実効性のある差別撲滅のヒントがあるのではないか。

そう思った。

差別の生みだす原因の一端が社会構造に確かにあり、だからそれを変えたいと考えることを無意味とは思わない。しかし、実際には誰が差別を越える希望を体現しているのかと言えば、それは稲田くんのように思える。

そもそも、周囲と違った存在に対して警戒心を抱いてしまうのは、人間にとって必要不可欠な危険察知能力の一種だ。そして、誰もが多かれすくなかれコンプレックスを抱えていて、そのコンプレックスは、自分が周囲に警戒されることへの恐怖のあらわれでもある。そういう人間のどうしようもない性質を無理に変えようとするより、ありのままの自分を認めさせてしまう(自分も仲間なのだと発信してしまう)ほうが早いのじゃないか。

そんな新たな視点を、稲田くんの生き方から教わったような気がする。

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電子書籍にない本の利点「全体像が直感できるところ」

電子書籍の欠点は情報の総量を直感的に把握しづらいところかもしれない。

実体を持つ本であれば、その厚さや大きさ、重さによって全体の分量を瞬時に把握できる。それに比べれば、電子書籍は情報量や書籍内での位置関係を感覚的に把握しづらい。

この違いは結構大きい。

例えばGoogleマップを見る時、はじめから拡大された交差点を見せられても、自分の位置も目的地も特定できない。そういう時、少し引いて自分と目的地の位置関係を特定したくなるだろう。全体像が見えるところまで高度を上げ、また自由に拡大縮小を繰り返してゆく。情報を読み込む作業は、われわれが思ってる以上に物理空間上の体感にひもづけて行われている。

本であってもそれは変わらない。具体的な興味を抱くためにも、また理解を深めるためにも、まずは全体像が把握できなければならない。自分はどの程度の総量の情報にいま向き合っているのか。そのどのあたりの情報を読み込んでいるのか。そのヒントが電子書籍にはない。確かに目次はあるし、読み切るまでの参考時間も数値化されているが、本の実体が持つ視覚的・物質的な情報密度には到底かなわない。

逆にいえば、もしこのあたりの欠点を克服する電子書籍がでてきたら、「本」という媒体はいよいよ終わりかもしれない。

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記者会見は現代版ギロチンなのだな

日大アメフト部の記者会見を見て、これまで何度も繰り返されてきた記者会見と同様の違和感を感じていた。

メディアや記者はなぜこれほど正義の使者を気取り、疑似裁判のようなことをするのだろう。チャットでは野次馬と揶揄してあまりある視聴者が記者たちの詰問に熱狂している。「いいぞ、もっとやれ」と。

メディアや視聴者にまで経緯を説明せねばならない正統な理由などありはしないのに、なぜそれほど当然のようにして罪を背負った人間を血祭りにあげることをいとわないのだろう。

状況をしばらく静観していて、ひとつ腑に落ちたことがある。

これはフランスでいうところのギロチンなのだな。首を切り落とされる罪人をエンターテイメントとして消費していたあの状況が、日本においてはこのようにして現存していて、民衆のストレス発散にひと役買っている。

ずっと抱いてきた違和感の正体はそこにあったのだろう。閉塞した社会/権力者への鬱憤を和らげる装置が、こうして今日にも引き継がれている。

このあまりに不健全な状況は、だから民衆の憤懣がさらに高まって、記者会見(公開処刑)くらいではとても解消できなくなるまでつづくに違いない。末期になればなるほどますます下劣に苛烈になることもほぼ確実視できてしまう。そしていまはかなり末期の方だろう。

これから先、テレビ報道とそれを消費する「正義をかたる乱暴者」にはできる限り近づきたくないなと心の底から思う。


2018年5月26日追記

日大アメフト部に関して素晴らしい記事があったので追記。過去の大学による不祥事とそれに対する対応の違いを主軸に再発防止や教育機関としてのあり方を淡々と説いていくスタイル。再発防止に向けてメディアにできることにとても自覚的で、冷静に状況を捉えられてもいる。ジャーナリズムってこういうだよなあ。ありがたい。

日大はなぜ失敗したか。東大、早慶、関学…大学不祥事対応に見る成功例と失敗例|BUSINESS INSIDER

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低質な質問に上質な回答を望む人々の無理解について

質問が誤っていた場合、それに明朗に答えることは難しくなる。期待した答えが返ってこないときには、そうした可能性も考えてみる必要がある。

先日、ドラマ「逃げ恥」について未見の方から「ハッピーエンドだったの?」と質問を受けたのだが、ぼくはそれに明朗に答えられなかった。

望まれた回答に落とし込めない

「逃げ恥」が結末を語り合うような作品ではないことを説明しようとしても、質問者はハッピーエンドかどうかに簡潔に答えてほしいらしく、こちらの話を聞く用意がない。回答を何度か制止されて観念し「ハッピーエンドだったと思います」と言ったが、どうにも収まりが悪い。特に大好きな作品を軽率な言葉で片づけねばならないことにいいようのない屈辱を感じて、だからつい余計な付言をしてしまった。「見なきゃ分からないことがたくさんある。見る気もないのに関わってこないでほしい」と。そういえば都構想の時も、府外の人にこんなふうに吐く機会が増えていた気がする……

そこで枕の言葉が浮かぶわけだ。

質問が誤っていた場合、それに明朗に答えることは難しくなる。

まさにそういう状況だった。

野党の質疑に同質性を思った

見た人になら分かるはずだが、逃げ恥の最終話は「ドラマが終わっても物語は続いていく」という含みを持たせた――いわば往年の恋愛ドラマへの皮肉をきかせたものだった。あの作品は一事が万事そんな感じで、現代社会の固定観念に疑義を表明する世界観全体に大きな魅力があった。故に「結末が幸か不幸か」という紋切り型の発想自体が適当ではないのだが、そういう説明を受け付けてくれないのだからやりようがない。

この不毛さにぼくは既視感を感じていた。

ああ、これは国会だ。野党の質疑だ。希望する回答でない限り聞く耳を持たない姿勢。なんとか誠実に答えようと試みても結局は徒労に終わる。寛容さの不在。太陽と北風でいえば北風。答弁する閣僚や官僚はきっとこういう感覚なのだなと思えたことは、今回の最大の収穫であった。

最後に

いまは文章化に際して思考を整理しているから筋が通っているけれども、質問を投げかけられた当初はこれほど簡潔には述べられなかったから、当時のぼくの解答には誰もがもどかしさを感じた可能性は高い。はやく「Yes or No」で答えてくれよと。

であれば、やはり自身の当意即妙さを向上させることが最も現実的な改善策なのであろうか。それができればコミュニケーションの幅もぐっと広がって、無理解は最小化し、理解を最大化できるのかもしれない。

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理想主義者に向けられる哀れみの正体

最近は特に理想主義者に対する風当たりが強まっているように思う。ぼくたちは今、簡単に未来を思い描けるだろうか? 昭和の頃に思い描いた21世紀は夢のような世界だっただろう。そのような夢見がちな見方は、いまあまり人気がなくなってしまった。

理由は種々あるだろう。世界全体の先行きが不透明になって特定の方向性が見えづらいとか、あるいは日本経済が長く停滞し、目先の生活でいっぱいいっぱいだとか――いや、そもそも実際、夢のような21世紀はこなかった。その落胆なのか……

ともかく、いま理想的な話をすれば「非現実的だ」「具体的にどうするんだ」と非難されるのが関の山だろう。これは「日本的リベラル」への不人気と相関しているようにも見受けられるが、なぜこれほど非難される存在になってしまったのか?

その正体を解きほぐすための示唆を提供できれば幸いに思う。

現実的な理想主義者たれ

最初に結論をいえば、理想は決して悪いものではない。むしろとても大事な「長期的な視点」を提供できる。しかし、それに固執するから具体的な道筋が軽視され、バランスが悪くなってしまう。できる限り「現実的な理想主義者」として考えようよ、ということになる。

登山隊の中の現実くんと理想くん

理想主義者と現実主義者の違いは、例えば山頂を目指す登山隊としてみると分かりやすい。

どちらも山頂を目指そうという目的は同じだ。そこからまず現実主義者は一歩ずつ歩むことを優先する。現状で最善と思えるルートを見定め、歩み始めようと主張する。

一方、理想主義者はそれを認めない。ルートが絶対に正しいとは言い切れないし、道半ばで命を落とすこともありえるからだ。だから現実主義者の案に反対する。それでは一歩も先へは進まないのだが、彼らは例えば瞬間移動装置のようなものを空想し、たったの一歩で山頂へ到達するような手段を欲する。確かにそれがもっとも安全だが、残念なのは瞬間移動装置を発明しようとはしないし、ヘリコプターのような妥協案を提案することもしない。

つまり、山頂へ至る歩数も困難さも考慮せず、あるいはまた新技術や画期的な解決策を導入してパラダイムシフトをもたらそうともせず、ただ「山頂に登りたい」と繰り返すのみになってしまう。それでは状況はなにも進展しない。もはや周りがみな気づいているというのに、本人だけが気づかずに相変わらず同じ駄々をこねつづけている。

まったく何やってんだよ。

これが理想主義者に向けられる哀れみの正体である。

現実主義にも欠点がある

ただし、逆に、理想をもたぬ現実主義者もまた、場当たり的に目先の状況に対応するだけになりやすい。山頂を確認し直したり、最適なルートを再考するといった長期視点が欠如しがちだからだ。だから気づいたときには山頂を見失うどころか、深い樹海に迷い込み、もはや引き返せぬ袋小路へと至る危険さえある。

良き塩梅で夢を見よう

以上のことから導き出せる良き塩梅のバランスとは、現実的な理想主義者たること――理想的に目的・目標を見定め、現実的な手段を考え実践すること。

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漢字が書けない人を嘲笑うのは時代錯誤

福士は12日放送の『ネプリーグ』(フジテレビ系)に出演し、漢字の「細心」が書けずに撃沈。ネット上では「福士くんバカだったのか」「もともと賢いイメージはない」と話題になってしまった。

新垣結衣以上に「バカ?」福士蒼汰の「不倫疑惑」「日本語力のなさ」がやばい......熱愛報道も影響で世間厳しめ | ギャンブルジャーナル | ビジネスジャーナル

こんなゴシップ記事をとりあげるのも気がひけるのだが、最近たびたび見かける「漢字が書けないだけでバカ認定」は、あまりにも時代錯誤が過ぎるので、その点について指摘してみたいと思う。こういった無理解で無駄に傷つく人が少しでも減ることを祈って。

漢字は「書く」ものから「変換する」ものに変わった

かつての時代なら、この事例は即バカ認定で問題はなかったかもしれない。ただし、いまはデジタル化してすでに20年が経つ。そして漢字は「書く」ものから「変換する」ものに変わった。だから、書けないからと言って読めない/意味を知らない/打ち込めないとは限らない。PCやスマホで文章をよく書く若い人ほど、必然的にその傾向は高まるだろう。

そうした現状にあって、果たして正確に漢字で書けなければならない正当な理由とはなんであろうか。少なくとも書けないからといってバカと言いきることは不可能だ。

では、漢字が書けない=学力がない、は正しいか?

それも正しくはない。確かに学力とは義務教育過程における履修の程度を一定以上包含するから、小学校で習っているはずの「細心」が書けないのを「問題だ」と認識することは可能だ。

しかし、時代が激変してしまった現状で学力とはそもそもなんであろうか。漢字を暗記しているということは暗記力があり、ゆえに学力があるという判断基準は確かにありえる。しかし、いまの時代に暗記力があるだけで果たして学力があると言いきれるだろうか。

いまや記憶能力や演算能力で人間はPCにまったく太刀打ちできなくなった。それはこの半世紀余りの急激な変化だ。いまはそのPCやデジタルの長所を使いこなし、問題を解決したり、新しいものを創造したり、自分の生活に役立てる基礎的な能力こそが、「学力」というのじゃないのだろうか。

福士くんはバカではない

福士くんにどの程度の学力があるのかをぼくは判断できないけれども、少なくとも現代的に再考した学力に則して考えれば、漢字が書けないだけでバカとはとても断定できない。

そもそも彼は俳優として自立し、実績を残している。少し考えてみれば分かるはずだが、セリフを覚えるのには一定以上の暗記力が必要だし、役になりきるためには一定以上の教養を持ち、新たな知見を学び取ろうとする能動的な好奇心がなければならない。しかも、役者は現状デジタルで代替不可能な職業であり、そこで個性を活かせている。その確固たる事実をまったく斟酌せず、ひとつふたつ漢字が書けないくらいで、彼をなぜゆえバカ認定できるのか、ぼくにはさっぱり理解できない。

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タバコとお酒の命運を分けたマナーの重要性

喫煙者への風当たりが強まるにつれて、「タバコを非難するならお酒も非難しろ」という声も日増しに高まっているけれども、そもそも、現状すでにお酒のほうが肩身が狭い可能性は考えないのだろうか。

例えば勤務中のタバコ休憩は当然のようにして許されるのに、お酒は許されていない。許されていないというか、マナーとして、勤務中にお酒を飲む人はそう多くない。「ランチに一杯」すら敬遠する人が大半だろう。我慢できないとしたら、それは嗜好ではなく中毒だからだ。

タバコとお酒を分かつもの

正確に現状を把握するなら、タバコよりもお酒の方がよほど場をわきまえてきたと言った方が良さそうだ。それに気づかずに酒とタバコを紐付け過ぎれば、予想外の展開になりかねない。

そう、こんな具合で。

アホ「タバコ禁止ならお酒も禁止だろ!」

社会「そんなにお酒と一緒の扱いがいいなら、勤務中にタバコ吸えなくていいよね」

アホ「え」

社会「だって勤務中さえ我慢できないとか、それニコチン中毒じゃん。これからは勤務時間外のみにしてね」

アホ「え、え」

社会「当然、昼間っから屋外で吸うのも止めてね。アル中同様みっともないから」

アホ「……」

まさにブーメラン状態。

人間社会の普遍的な法則として「マナーで対処できない場合、それはルールになる」というものがある。より近代的に言えば「法的拘束力を与えられる」。お酒は場をわきまえる/マナーとして了解することで、社会との良好な関係を保ってきたが、タバコはそれでは対処しきれなかった。だから法的拘束力を有する世界規模のルールになろうとしている。タバコとお酒を決定的に分かつのはそこだ。

マナーやルールを常に評価する必要性

ぼくたちはよくよく注意せねばならない。「いままでの社会で許されていた」からといって「それに正当性があるかかどうか」は決して判断できない。「常識」や「倫理観」は社会状況が変わるのに連動して刻々と変化してゆくものであるし、だからこそ、法律だって常に更新できるように設計されている。

それを見過ごしてしまえば、いまのタバコのように、自分たちがよほど優遇されていた事実に思い至ることができず、延々と墓穴を掘るハメになる。「お酒も禁止」論はその筆頭といっていいだろう。

個人的に願うのは、“一部の足手まとい”の投げるこのブーメランが、首の皮一枚でつながる喫煙者たちの喉元に、さらなる致命傷を与えないことだけ。

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信仰の持つ思考停止の有用性について

宗教が必要とされた理由って、実はとても合理的だったのかもしれない。特に荒んだ時代、モラルの絶望的に低かった時代おいては。

最近事あるごとに炎上しているユーチューバーの狂気的な振る舞いを見ていると、心が荒んでくる。悪質クレーマーを目の前で見ているような嫌悪感で一杯になる。個人的にそういうヤカラが大嫌いだし、できれば世界から消えてほしい。しかし、ぼくに彼らを消去する筋合いなどないし、殺せば殺人でむしろぼくがお縄だし、そんなことはしないのだが、やはり大嫌いという感情を消し去ることは不可能だ。だから願うのだ「罰が当たれ」と。

ぼくは信仰心というのは、実際にはそういった文脈で機能していたのではないかと考えている。

つまり、救いようのない人間に心をとらわれていたら、それは自分のリソースを不毛に消費している意味で無駄だろう。そこで「悪いやつには天罰がくだる」と信じられれば途端にモヤモヤが軽減される。信仰心とは「思考停止」を逆に活用して心を開放する知恵だったのかもしれない。確かに信仰心が行き過ぎれば思考停止も極まるが、程よく活用すれば効果抜群の精神安定剤として機能しうる。

負の激情に心を囚われても良いことはひとつもない。大事なのはなぜそのような状況が起こったのか。問題があるとすればその本質へと至り、改善の方法を模索する。その全容からなにを把握し、学習し、自身の生活に役立てればよいのか。その意味で信仰心――少なくとも「悪いやつにはバチが当たる」は、有用な概念だとぼくは思う。


2017年2月10日追記

この記事を書いた後にこんな文化人類学的知見を見つけた。

未開社会には武器を伴わない戦争があります。それは、「スピリットウォー(呪詛(じゅそ)」と呼ばれる戦争です。彼らは身内の不幸や災厄は敵の呪詛によるものだと真剣に考えており、相手の髪の毛やたばこの吸い殻を呪詛する相手に見立てて、「作物が不作に終わるように」「壊滅するように」といった非常に生々しいことを祈ります。呪詛が日常的に行われ、それが原因で戦争に発展することもあります。

人類の争いの歴史とは – 早稲田ウィークリー

呪詛を原始社会における戦争と捉える方向性。なるほどと思った。「バチが当たる」だけじゃなく、それを更に集団で共有して解消してしまうと。引用元では、結果としては戦争へと至ってしまうわけだけど、とはいえやはり「バチが当たる」や「呪詛」のような精神的な緩衝材があることで、暴力や武力的な衝突が抑制されていた可能性を感じる。

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喫煙者たちはどこで道を踏み間違えたのか

禁煙ブームはヒステリックな嫌煙家のせいではない

個人的な嫌煙の理由は臭いからで、それ以上の御託を並べる気もサラサラないんだけど、ことここに至ってもなおヒステリックな嫌煙家たちのせいで嫌煙ブームになった、と揶揄する喫煙者が結構いて、それはあまりにも状況把握がなっていなので、ひとつだけ苦言を呈しておきたいと思う。

「自分はマナー守ってる」という無関心

自分はマナー守ってるんで。喫煙者にマナーの話をすると、決まってそう教えてくれるわけだけど、そのセリフに立ち上る無関心こそが嫌煙ブームを巻き起こした元凶であることになぜ気づかないのだろう。よく考えてほしいのだが、マナーの悪い喫煙者がいれば、当然のごとく喫煙者全体のイメージはぐんぐん下ってゆく。それは巡り巡ってあなたにのイメージにも大いに影響を与えるはずだ。

つまり、もし本当に喫煙できる世界を死守したいならば、喫煙者こそが率先してマナーの悪い喫煙者を断罪せねばならなかったのに、「自分はそういう人たちとは違うから」と斜に構え放置しつづけた挙句、これほど最悪な状況にまで落ちぶれたという自業自得の様相は、もっと理解したほうがよいのじゃないかと思う。

端的に言えば、目的意識の致命的な欠如。これに尽きる。

確かに現状を考えてみれば、大いに同情できるところもないことはない。さはさりながらだ。それ以上に社会モラルに非協力的なまま、自業自得を完遂させた救いようのない集団=喫煙者というのが最終的な感想になってしまう。

喫煙者の二の舞いが至る所に散見される

これと同じような状況は枚挙に暇がない。例えばいま都心部で暴走するピストバイクやママチャリ、自動車でもそれは起きつつある。あのへんも「自分はマナーを守っている」といって外部からの評価に無頓着な人たちばかりだから、遅かれ早かれ同じ轍を踏むことになるだろう。

結局、「自分」の行動だけではなく「自分たち」の評価からぼくたちは逃れられない。集団として生きることを宿命づけられた存在だから当然なのだが、だからこそ、そのイメージに対する敏感さがどうしても必要になってくる。

日本人というブランド、テレビ局、朝日新聞、大阪人、なんでもそうだ。自分はやってないからといって、自分たちの振る舞いを放置するとどうなるのか。そういった巨視的な想像力を働かせる責務が、コミュニティで共に生きる同居人として存在しているのだと思う。

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都構想のおかげでIQが向上した

9年前に一度挑戦したIQテストにたまたま再度挑戦したら、数値がなぜか大幅に向上していた。113→130に。ネットの簡易テストだから数字自体は補正してもらうとしても、以前は解けなかったであろう問題が解けるようになったことは、共有に値する事実だろう。

つまりIQは向上するのだ。

iqtest2007-2016

以前IQテストした時の記事。

お兄ちゃん、お姉ちゃんはIQが高い|Petty MyRepo

10年前と今との大きな違いは知的好奇心の有無で、単純にはその影響なのだと思う。当時とはもう読書量が全く違うから。しかし、その中でも特に最大の関心事はなにかといえば、やはり政治の動向(とりわけ都構想の行方)であったから、ぼくはほとんど確信的にそれこそが正解率向上の決め手だったと思っている。橋下さん・維新の議員さん・政策づくりに携わった役人さん、みんなに感謝せねばならないね。

高度な知性は他者の思考力を誘発する効果さえあるのかもしれない。

都構想のような複雑極まる話を必死で理解しようと努めてきたその一連には、相当な学習効果があったのだろう。情報を受け取り、自らもそのソースへとあたり、さらに反対勢力の反論と突き合わせ、自分なりの結論を導き出す。結論の正誤以上に、そのプロセスこそが論理的思考力を研磨したのかもしれない。

以下がその簡易IQテストのURLです。いまは懐かしFlashコンテンツ。

IQtest.dk
http://iqtest.dk/main.swf

10年間ほとんど変化のない状態で公開されていて本当にありがたかった。お陰で自分の変化に気づくことができた。

問題の内容自体はバージョンアップしているのかもしれないけれど、基本的に論理的思考力の検査に向いた問題で統一されています。制限時間は40分。頭はやはり疲れます。

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