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低質な質問に上質な回答を望む人々の無理解について

質問が誤っていた場合、それに明朗に答えることは難しくなる。期待した答えが返ってこないときには、そうした可能性も考えてみる必要がある。

先日、ドラマ「逃げ恥」について未見の方から「ハッピーエンドだったの?」と質問を受けたのだが、ぼくはそれに明朗に答えられなかった。

望まれた回答に落とし込めない

「逃げ恥」が結末を語り合うような作品ではないことを説明しようとしても、質問者はハッピーエンドかどうかに簡潔に答えてほしいらしく、こちらの話を聞く用意がない。回答を何度か制止されて観念し「ハッピーエンドだったと思います」と言ったが、どうにも収まりが悪い。特に大好きな作品を軽率な言葉で片づけねばならないことにいいようのない屈辱を感じて、だからつい余計な付言をしてしまった。「見なきゃ分からないことがたくさんある。見る気もないのに関わってこないでほしい」と。そういえば都構想の時も、府外の人にこんなふうに吐く機会が増えていた気がする……

そこで枕の言葉が浮かぶわけだ。

質問が誤っていた場合、それに明朗に答えることは難しくなる。

まさにそういう状況だった。

野党の質疑に同質性を思った

見た人になら分かるはずだが、逃げ恥の最終話は「ドラマが終わっても物語は続いていく」という含みを持たせた――いわば往年の恋愛ドラマへの皮肉をきかせたものだった。あの作品は一事が万事そんな感じで、現代社会の固定観念に疑義を表明する世界観全体に大きな魅力があった。故に「結末が幸か不幸か」という紋切り型の発想自体が適当ではないのだが、そういう説明を受け付けてくれないのだからやりようがない。

この不毛さにぼくは既視感を感じていた。

ああ、これは国会だ。野党の質疑だ。希望する回答でない限り聞く耳を持たない姿勢。なんとか誠実に答えようと試みても結局は徒労に終わる。寛容さの不在。太陽と北風でいえば北風。答弁する閣僚や官僚はきっとこういう感覚なのだなと思えたことは、今回の最大の収穫であった。

最後に

いまは文章化に際して思考を整理しているから筋が通っているけれども、質問を投げかけられた当初はこれほど簡潔には述べられなかったから、当時のぼくの解答には誰もがもどかしさを感じた可能性は高い。はやく「Yes or No」で答えてくれよと。

であれば、やはり自身の当意即妙さを向上させることが最も現実的な改善策なのであろうか。それができればコミュニケーションの幅もぐっと広がって、無理解は最小化し、理解を最大化できるのかもしれない。

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