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漢字が書けない人を嘲笑うのは時代錯誤

福士は12日放送の『ネプリーグ』(フジテレビ系)に出演し、漢字の「細心」が書けずに撃沈。ネット上では「福士くんバカだったのか」「もともと賢いイメージはない」と話題になってしまった。

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こんなゴシップ記事をとりあげるのも気がひけるのだが、最近たびたび見かける「漢字が書けないだけでバカ認定」は、あまりにも時代錯誤が過ぎるので、その点について指摘してみたいと思う。こういった無理解で無駄に傷つく人が少しでも減ることを祈って。

漢字は「書く」ものから「変換する」ものに変わった

かつての時代なら、この事例は即バカ認定で問題はなかったかもしれない。ただし、いまはデジタル化してすでに20年が経つ。そして漢字は「書く」ものから「変換する」ものに変わった。だから、書けないからと言って読めない/意味を知らない/打ち込めないとは限らない。PCやスマホで文章をよく書く若い人ほど、必然的にその傾向は高まるだろう。

そうした現状にあって、果たして正確に漢字で書けなければならない正当な理由とはなんであろうか。少なくとも書けないからといってバカと言いきることは不可能だ。

では、漢字が書けない=学力がない、は正しいか?

それも正しくはない。確かに学力とは義務教育過程における履修の程度を一定以上包含するから、小学校で習っているはずの「細心」が書けないのを「問題だ」と認識することは可能だ。

しかし、時代が激変してしまった現状で学力とはそもそもなんであろうか。漢字を暗記しているということは暗記力があり、ゆえに学力があるという判断基準は確かにありえる。しかし、いまの時代に暗記力があるだけで果たして学力があると言いきれるだろうか。

いまや記憶能力や演算能力で人間はPCにまったく太刀打ちできなくなった。それはこの半世紀余りの急激な変化だ。いまはそのPCやデジタルの長所を使いこなし、問題を解決したり、新しいものを創造したり、自分の生活に役立てる基礎的な能力こそが、「学力」というのじゃないのだろうか。

福士くんはバカではない

福士くんにどの程度の学力があるのかをぼくは判断できないけれども、少なくとも現代的に再考した学力に則して考えれば、漢字が書けないだけでバカとはとても断定できない。

そもそも彼は俳優として自立し、実績を残している。少し考えてみれば分かるはずだが、セリフを覚えるのには一定以上の暗記力が必要だし、役になりきるためには一定以上の教養を持ち、新たな知見を学び取ろうとする能動的な好奇心がなければならない。しかも、役者は現状デジタルで代替不可能な職業であり、そこで個性を活かせている。その確固たる事実をまったく斟酌せず、ひとつふたつ漢字が書けないくらいで、彼をなぜゆえバカ認定できるのか、ぼくにはさっぱり理解できない。

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