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2017年1月

信仰の持つ思考停止の有用性について

宗教が必要とされた理由って、実はとても合理的だったのかもしれない。特に荒んだ時代、モラルの絶望的に低かった時代おいては。

最近事あるごとに炎上しているユーチューバーの狂気的な振る舞いを見ていると、心が荒んでくる。悪質クレーマーを目の前で見ているような嫌悪感で一杯になる。個人的にそういうヤカラが大嫌いだし、できれば世界から消えてほしい。しかし、ぼくに彼らを消去する筋合いなどないし、殺せば殺人でむしろぼくがお縄だし、そんなことはしないのだが、やはり大嫌いという感情を消し去ることは不可能だ。だから願うのだ「罰が当たれ」と。

ぼくは信仰心というのは、実際にはそういった文脈で機能していたのではないかと考えている。

つまり、救いようのない人間に心をとらわれていたら、それは自分のリソースを不毛に消費している意味で無駄だろう。そこで「悪いやつには天罰がくだる」と信じられれば途端にモヤモヤが軽減される。信仰心とは「思考停止」を逆に活用して心を開放する知恵だったのかもしれない。確かに信仰心が行き過ぎれば思考停止も極まるが、程よく活用すれば効果抜群の精神安定剤として機能しうる。

負の激情に心を囚われても良いことはひとつもない。大事なのはなぜそのような状況が起こったのか。問題があるとすればその本質へと至り、改善の方法を模索する。その全容からなにを把握し、学習し、自身の生活に役立てればよいのか。その意味で信仰心――少なくとも「悪いやつにはバチが当たる」は、有用な概念だとぼくは思う。


2017年2月10日追記

この記事を書いた後にこんな文化人類学的知見を見つけた。

未開社会には武器を伴わない戦争があります。それは、「スピリットウォー(呪詛(じゅそ)」と呼ばれる戦争です。彼らは身内の不幸や災厄は敵の呪詛によるものだと真剣に考えており、相手の髪の毛やたばこの吸い殻を呪詛する相手に見立てて、「作物が不作に終わるように」「壊滅するように」といった非常に生々しいことを祈ります。呪詛が日常的に行われ、それが原因で戦争に発展することもあります。

人類の争いの歴史とは – 早稲田ウィークリー

呪詛を原始社会における戦争と捉える方向性。なるほどと思った。「バチが当たる」だけじゃなく、それを更に集団で共有して解消してしまうと。引用元では、結果としては戦争へと至ってしまうわけだけど、とはいえやはり「バチが当たる」や「呪詛」のような精神的な緩衝材があることで、暴力や武力的な衝突が抑制されていた可能性を感じる。

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