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2014年6月

「都議会ヤジ問題」は統一地方選への布石

低劣なヤジはどの議会にもある。その中で、なぜこの時期に問題化したのか。

そう考えた時に注目すべき一大イベントは、来春に控えている統一地方選しかない。ぼくの住んでいる大阪も含め、現状の政治のすべてが、それを見据えて動いていると言ってしまってもいいくらいだ。

今回の件で勘ぐるなら、統一地方選前に、東京都議会の圧倒的多数である自民党をなんとか切り崩したいという意図があったのではないか。

以下、会派の比率

  1. 東京都議会自由民主党 59
  2. 都議会公明党 23
  3. 日本共産党東京都議会議員団 17
  4. 都議会民主党 15
  5. 民主党都議会結いと維新 5
  6. みんなの党 Tokyo 4
  7. 都議会生活者ネットワーク 3
  8. 無所属 1

東京都議会|wikipedia

いつもとほとんど変わらないようなヤジでも、ジェンダー問題として発信すれば、人権派・フェミニストと言われる拡散力の強い層にまず響き、勝手に伝播してゆく。

この見立てが正しいとすれば、みんなの党の思惑は成功した。今回の問題が来年の選挙まで尾を引く可能性は大いにある。

ともかく、政治の世界は血なまぐさい。件の発言なんて可愛く思えるほどに。踊っているのか、踊らされているのか。よくよく考えてみる必要がある。

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「都議会ヤジ問題」は都民の責任に帰結する

都議会ヤジ問題を、ぼくは女性差別問題としてではなく、議会の透明性、クオリティの問題として把握している。つまり、突き詰めれば東京の有権者の責任だ。

この問題の本質は、東京都の立法を司る議会において、議員たちがどのような覚悟で参加し、議論しあっていたのかというそれに尽きる。

そもそも、議会を高品質に保つ最も重要な要素は、「有権者に監視されている」というプレッシャーしかない。今回の件で明白なことは、都議会(少なくとも渦中の議員)はそれを全く感じていなかったということだ。

実はぼく個人が9年間住んだ東京から大阪へ引っ越した理由のひとつも、低劣な東京の地方自治に嫌気が差したからだった。

今までの東京であれば、渦中の議員がこのあと、たとえ同じヤジを繰り返すような態度を示しても、次の選挙で票が入ったりしていた。そんなことを繰り返す土地で、高品質な議会が維持できるはずがないじゃないか。

実は、都議会の模様はアーカイブ化されてネット配信されている。見ようと思えば誰だって見られるようになっている。つまり、東京都議会は最低限の責任は果たしてきた。

東京都議会インターネット中継 http://www.gikai.metro.tokyo.jp/live/

だから外部者として望むのは、今回のことで注目が集まって、監視のプレッシャーを感じた都議会が少しずつでも変わってゆく未来だ。

ちなみに、問題となった場面についてどれだけの人が一次ソースにあたって、彼女の質問内容に耳を傾けただろう。どれも東京にとってとても重要なものばかりであった。

トップ > ネット中継 > 平成26年第2回定例会 > 一般質問 http://www.gikai.metro.tokyo.jp/live/video/201406180.html

いや、とはいえ。ぼくは大阪府民なので、余計なお世話以外のなにものでもないですね。

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平和主義者として「集団的自衛権」を許容する試み

最初に

ぼくは平和主義者である。かなりぶっ飛んだ急進的な平和主義者である。しかし、だからといっていまの日本の状況は平和主義以前に多くの矛盾を抱える意味で不完全だと思っている。「集団的自衛権」はまさにその矛盾の深部へと通じている問題であって、それを頭ごなしに否定することはできない。そして、ぼく個人がモットーとして掲げる「建設的振る舞い」を指向するためにも、まず「集団的自衛権」に抱いている不安の原因を把握し、それを解決し、平和主義的に建設的にこれを許容する可能性を探ってみたい。

不安の原因は「アメリカへの不信」ではないか

「集団的自衛権」に不安を覚えるのはなぜかといえば、「アメリカの軍隊が交戦状態に突入したら、自衛隊も有無も言わさずそれに参加しなければならない」可能性を想起するからだろう。

もっと踏み込むと、これまでのアメリカを思い返した時に、彼らの「自衛」は日本人の考える「自衛」とは必ずしも一致していない。彼らは正義の名のもとに積極的に軍事介入してきた。アメリカの解釈する「自衛」に付き合わされるのはいやだ。その不信が不安の正体ではないかとぼくは仮定する。

不安を抱かない「集団的自衛権」の可能性

不安を抱かない「集団的自衛権」はどのようなものか考えてみると、「自衛」の解釈をアメリカに譲らず、あくまでも日本の尺度で判断できればどうだろう。つまり、平和的に活動していたアメリカの兵士たちが、明らかに不当に攻撃を仕掛けられていた場合に限れば良い。

「明らかに」というのが肝だ。

たとえば、かつて太平洋戦争開戦まえのアメリカは、日本に対して挑発行為(燃料の輸出制限等々)を仕掛けていた。戦争行為へ誘い込むこのような戦略は戦後も引き継がれてきた。そのような関係悪化の形跡が一切見当たらない場合に限ればよいわけだ。これを日本の独立機関が何の外圧もない状態で判断するなら、いままでのアメリカの軍事介入の多くが「自衛」と判断されるとは思えない(そんな意見は楽観的という批判は受け付けます)。

もしそのように明言できるなら、助ける対象は「殺されかけている被害者」であり、彼らが日本の周辺で不当に攻撃を受けていたら、それは見捨てる方が非人道的で、助ける選択こそが真っ当な道ではないだろうか。

明るい未来は自分たちでたぐり寄せるもの

憲法や軍事という言葉に対して、頭ごなしの否定や非難ばかりが飛び交ってきたこれまでの状況にぼくは辟易している。いまの状況を受け入れ、その上で建設的に意見をぶつけあえば、もっと良い解決策は見えてくるのではないか。

その時にもっとも邪魔になるのは、思想に凝り固まって思考停止してしまった人たちだろう。現状を理解する努力をしない人たちだ。平和がいいなんて、日本人ならほとんどの人が共有している。だけど、実際、世界から戦争はなくなっていないし、軍隊も核もなくなっていない。それを見ようとせずに希望している未来などに現実味があるのだろうか。断言していい。ない。それだけははっきりしている。ぼくは間違ってもそうならないと心に誓う。

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