« 2007年1月 | トップページ | 2007年7月 »

2007年6月

時には物語のように

恋の話です。

ある日、彼は病院へ行きました。
おかしな病気にかかってしまった彼は、
定期的に経過を見なければならなかったのです。

担当医にレントゲンを撮ってくるように言われ、
言われるままレントゲン室に行った彼は
そこで働く一人の女の人を見つけました。
彼女を見た瞬間、彼は病気のことなんてどうでもよくなってしまいました。
彼は、はじめて会ったその人に恋をしてしまったのです。

内気な性格の彼は、
生まれて初めて、見ず知らずの女の人と話をしたいという気持ちになりました。
でも、結局、話しかけることはできませんでした。

そのまま病院を後にした彼は、後悔で一杯でした。
次に来た時、もし彼女に再び会うことができたら、
そのときは話しかけてみよう。
そう心に決めました。

でも、今日、その次の時がきたのに、
彼は話しかけることができませんでした。
まともに顔を見ることさえできなかったのです。

悔しさと不甲斐なさがこみ上げて
彼は天を仰ぎました。
正直になれない自分を恨みました。

それでもまだ、
彼はどうしてもあきらめることができませんでした。

もし許されるなら、もう一度だけ、あの人に会わせてください。
一度でいいから、話をさせてください。
彼は祈ります。

しかしいくら祈っても、
誰も何も言ってはくれませんでした。

そう、願いがかなう唯一の方法は
彼が勇気を振り絞るしかないのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分であるということ

クリエイティブな仕事をしていると、
ジレンマとして
人と同じであるということにすごい劣等感を感じてしまう。

集団の中で、集団に影響されて流されて、
何の癖もないものを生み出してしまうことへの恐怖心がいつも心のどこかにある。

個性と言うこともできるかもしれないけれど、
とにかく人と違っていたいという欲求がすごくある。

でも、それって実はとても独りよがりで、
間違った解釈をしてしまっていたのかもしれないって、
最近思う。

なんというか、そう、それは遺伝子と一緒で、
僕たちは先祖代々、遺伝子を伝達して、
記憶や血を継ぎながら今こうしてここに生きている。

だから、
アイディアだって、積み重ねの上に生まれるものでいいのだと思う。
集団の中で生まれるものでいいのだと思う。

誰かがやったこと。過去の誰かが生み出したアイディアからヒントを経て、
そこから展開させたものを自分のクリエイティブな能力だと判断していいのだと。

というかそもそも全く何ものにもとらわれずに発想を展開させられるなんてことは不可能に近いし、
もしできる人間が要るとすれば、きっとそれは天才と呼ばれる存在なんだろう。

だから別に集団の中で、自分が他と同じであることを恐れる必要なんてなくて、
今までの歴史を受け入れた上で、
僕はその上に積み上げられるブロックでいいのだと思う。

すごく当たり前のことなのかもしれないけど、
こうして悩むこともまた、無意味ではなかった。
決して自分かわいさにいっているわけではなく、
きっとこの発見は一人ひとりが自分自身で感じとって、
経験として心の中に入ってこなければいけないものなのだと思うから。

そしてたとえ積み重なるブロックになるとしても、
ひとつだけ注意しようと思うのは、
上辺の歴史にだけとらわれてはいけないということ。
今の世界の状態だけが、今まで生きてきた人間の知恵のすべてだとは思ってはいけないということ。
多数ではなく、もしかしたらどこかで途絶えてしまったかもしれない
いわゆる偏見や差別の対象となって、闇の奥へ沈んでしまっている記憶や技術。真実。
それらをちゃんと見つけていかなければいけないのだと思う。

やっぱりそういう意味では、自分自身という個をしっかりともって、
自分自身の目によって、世界と向き合うことが必要不可欠なんだろう。。。

流されているだけでは、結局、何も生み出せない。
それこそ、最初のジレンマの中に収まった人間に成り下がってしまうんだろうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

そこまで言って委員会

今、僕の中でニコニコ動画があつい。

そして、その中でもひときわ熱いのが
関東圏では一切放送されない番組

「そこまで言って委員会」

僕は関東圏に住んでいるんで、
こんな面白い番組を知らなかったのがすごく悔しい。

内容は、政治経済など、社会問題を取り上げて討論するという形式で、
何がすごいって、東京の番組ではあり得ないような言いたい放題さがもう。。。

いかに関東圏のキー局が、
本音で語れない規制の中で放送しているのかということを痛感させられます。

著名な人が多数出演していて、みんな本当に生き生き発言しています。

なんでこんなにすき放題いえるのかと不思議だったんですが、
どうやら番組にスポンサーを入れていないらしい。
あとやっぱり東京でやらないというのも大きいんでしょうね。

いや、どちらにしてもこの番組、
本当におもしろいし、なによりためになる。
東京のテレビ見つつ、この番組も見たら、
結構いい感じでバランス取れるのかも。

DVDとか出ないのかな・・・・。





| | コメント (0) | トラックバック (1)

感動の影に潜むもの

映像などでよくある題材に、
足に障害を負った学生が、
生きる希望をみつけて健常者と一緒の長距離走に挑戦する。

というようなものがある。
ラストシーンはこうだ。

血のにじむ訓練をして本番を迎えたが、
やはりみんなとはスピードも体力も格段に違う。
どんどんと取り残され、結局一人で孤独な道のりを走っていくことになる。

主人公は思う。
ああ、、、もうだめかもしれない。
足が痛い。
義足が外れてしまいそうだ・・・。

そんなとき
クラスメートが、家族が、見ず知らずの人が、
がんばれ!がんばれ!とエールを送りながら、一緒に走ってくれる。

主人公はその励ましによって、再び心がよみがえり、
見事にゴールすることができた。
この主人公は現在も、希望を胸に走り続けている。

こんなシーン。
すごくありふれていて、
でもとても暖かいこんな場面。
もしもこれに実話であるという事実が加わったら、
もうたまったものじゃない・・・。
胸が熱くなって、感動が心を包み込むだろう。

でも、その種の感動というのは
普段、現実世界での自分自身が、目の前で困っている障害者の人を助けられないというジレンマやストレスが
その場面を見ることで解消されて引き起こるものなのではないかと感じた。
あくまでも健常者目線ではあるけど、少なくともそういう一面が確実にあると思う。
現実世界では、恥ずかしくて、ほんの少しの勇気がなくて踏み出せない一歩。
そんな心の穴をこの場面が埋め合わせてくれる。

それは一見いいように思うけれど、
この映像で満たされてしまった心は、
その後、現実世界で同じような状況に出くわした時、
また一歩を踏み出せない自分を繰り返してしまうんじゃないだろうか。

感動が生み出す効果には
見る人の心を甘やかしてしまう一面があるんだとふと思った。

もし逆に、心を鍛える映像というのがあるとすれば、
それは残酷で、胸に何かつっかえが残って、
とても後味が悪いものなのかもしれない。
その映像自体の評価は低いものになる可能性のほうが高いだろう。
でも、実際、そのおかげで現実世界での生き方がプラスに変わるとするなら、
僕は作ったもの自体の評価よりも、効果を優先させたいと思う。

エンターテイメントは見てもらえなければ意味がないが、
しかし作る人間には、それを見たひとりひとりに対して責任がある。

だから
たとえむやみやたらな感動を与えることが、人を呼び込むエサになるとしても、
たとえ見た人間がその映像はとても良かったと評価したとしても、
その後の人生において、マイナスの影響を与えてしまったとしたなら、
それが本当にいいことであるとは肯定できない。

とても難しい問題だけど、表現者という人間全員が、
よくよく考えなければいけないことなんだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

意識レベル

最近思うんですが、

意識というものにはレベルみたいなものがあって、
といっても交通事故や病気で意識が混濁しているのとはちょっと違って、

日々どんなことを考えているかというか、
どんなことに目を向けているかというか、
そういう意識のこと。

たとえば、
デジカメがほしいけど、
高いのはいやだし、でもすごくほしいなと考えていたとして、

いつも何気なく通り過ぎている商店街の片隅のお店で、
掘り出し物のようなデジカメが売られているのを見つけることができた。

普段、いろいろな情報を目にしている僕たちは、
自分の中にある意識のレベルによって、
脳みそに引っかかるかどうかが決まってくる。

デジカメがほしいという意識がなければ、
その掘り出し物だって
いつものように気づかずに通り過ぎてしまっていただろうし、
そういうところから、きっと「ひらめき」なんかも生まれてくるんだと思う。

電車で目の前に座っていた人が読んでいた新聞の見出しが気になったり、
下水道のふたに書いてある数字が気になったり、
テレビやインターネットだったり
そういう、普段目にしているのに気にならなかったことが、
意識が違うだけで、たちまち世界が変わったように気になってくる。
一つ一つの意味がつながって、新たな発見につながってくる。

意識が低いというのは、
昨日も今日も、重要なヒントを見逃している可能性がすごく高い。

なんかとっても損をしている気分になるんだけど、
だからといって、何を考えれば意識のレベルが上がるのかなんてわからない。
きっと人の数だけ方法もあるんだろう。
だから僕は、自分なりに重要だと思うことについて、必死で考えていればいいんだと思う。
そうすれば、何もしなくても世界のほうから寄ってきてくれる。

こんにちは、新しい世界。
そして新しい自分。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年7月 »