タバコとお酒の命運を分けたマナーの重要性

喫煙者への風当たりが強まるにつれて、「タバコを非難するならお酒も非難しろ」という声も日増しに高まっているけれども、そもそも、現状すでにお酒のほうが肩身が狭い可能性は考えないのだろうか。

例えば勤務中のタバコ休憩は当然のようにして許されるのに、お酒は許されていない。許されていないというか、マナーとして、勤務中にお酒を飲む人はそう多くない。「ランチに一杯」すら敬遠する人が大半だろう。我慢できないとしたら、それは嗜好ではなく中毒だからだ。

タバコとお酒を分かつもの

正確に現状を把握するなら、タバコよりもお酒の方がよほど場をわきまえてきたと言った方が良さそうだ。それに気づかずに酒とタバコを紐付け過ぎれば、予想外の展開になりかねない。

そう、こんな具合で。

アホ「タバコ禁止ならお酒も禁止だろ!」

社会「そんなにお酒と一緒の扱いがいいなら、勤務中にタバコ吸えなくていいよね」

アホ「え」

社会「だって勤務中さえ我慢できないとか、それニコチン中毒じゃん。これからは勤務時間外のみにしてね」

アホ「え、え」

社会「当然、昼間っから屋外で吸うのも止めてね。アル中同様みっともないから」

アホ「……」

まさにブーメラン状態。

人間社会の普遍的な法則として「マナーで対処できない場合、それはルールになる」というものがある。より近代的に言えば「法的拘束力を与えられる」。お酒は場をわきまえる/マナーとして了解することで、社会との良好な関係を保ってきたが、タバコはそれでは対処しきれなかった。だから法的拘束力を有する世界規模のルールになろうとしている。タバコとお酒を決定的に分かつのはそこだ。

マナーやルールを常に評価する必要性

ぼくたちはよくよく注意せねばならない。「いままでの社会で許されていた」からといって「それに正当性があるかかどうか」は決して判断できない。「常識」や「倫理観」は社会状況が変わるのに連動して刻々と変化してゆくものであるし、だからこそ、法律だって常に更新できるように設計されている。

それを見過ごしてしまえば、いまのタバコのように、自分たちがよほど優遇されていた事実に思い至ることができず、延々と墓穴を掘るハメになる。「お酒も禁止」論はその筆頭といっていいだろう。

個人的に願うのは、“一部の足手まとい”の投げるこのブーメランが、首の皮一枚でつながる喫煙者たちの喉元に、さらなる致命傷を与えないことだけ。

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「最小の少数派とはあなた自身である」という民主主義の根幹について

少数勢力の政治団体はよく「わたしたち少数派の意見も聞け。それが民主主義だ」とのたまう。ぼくにはそれがひどく滑稽に思えてならない。

そもそも少数少数というが、突き詰めるなら我々は一人ひとりが最小単位の少数派であって、みながそれぞれに主張を持っている。民主主義というのは、その個々人が集まって、どのようにして集団社会を運営してゆくかを考え、実行する仕組みだ。それを理解しているなら、少数であろうとなかろうと、自分の主張で大勢を説得せねばならない。社会の行き先を決めようというのに、誰も説得できない個人の主張に従うことなどできっこないからだ。

もし、個人個人の主張のひとつひとつを聞き、尊重し合う政治がいいというなら、それは有り体に言えば「いつまでも何も決まらない政治」が生まれるだけだ。政治の枠組みにおいては個々人の主張を尊重するには限界がある。だからこそ期限を定め、より大勢を納得させられるアイディアに決定して先へ進もう。これが民主主義の根幹であり、それゆえに「言論の自由」だけは制限してはならないということになっている。

それを理解していれば、政治団体やそれに所属した議員から「わたしたち少数派の意見を聞け」などという文句は出てこようはずがない。群れることができている時点で十分に多数派であるし、さらに支持を拡大して政権与党(多数派)にならねば理想の社会だって実現できない。つまり、中途半端な多数派だから個々人から煙たがられ、中途半端な多数派だから社会変革も達成できない。これを滑稽といわずしてどう形容すればよいのだろう。

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信仰の持つ思考停止の有用性について

宗教が必要とされた理由って、実はとても合理的だったのかもしれない。特に荒んだ時代、モラルの絶望的に低かった時代おいては。

最近事あるごとに炎上しているユーチューバーの狂気的な振る舞いを見ていると、心が荒んでくる。悪質クレーマーを目の前で見ているような嫌悪感で一杯になる。個人的にそういうヤカラが大嫌いだし、できれば世界から消えてほしい。しかし、ぼくに彼らを消去する筋合いなどないし、殺せば殺人でむしろぼくがお縄だし、そんなことはしないのだが、やはり大嫌いという感情を消し去ることは不可能だ。だから願うのだ「罰が当たれ」と。

ぼくは信仰心というのは、実際にはそういった文脈で機能していたのではないかと考えている。

つまり、救いようのない人間に心をとらわれていたら、それは自分のリソースを不毛に消費している意味で無駄だろう。そこで「悪いやつには天罰がくだる」と信じられれば途端にモヤモヤが軽減される。信仰心とは「思考停止」を逆に活用して心を開放する知恵だったのかもしれない。確かに信仰心が行き過ぎれば思考停止も極まるが、程よく活用すれば効果抜群の精神安定剤として機能しうる。

負の激情に心を囚われても良いことはひとつもない。大事なのはなぜそのような状況が起こったのか。問題があるとすればその本質へと至り、改善の方法を模索する。その全容からなにを把握し、学習し、自身の生活に役立てればよいのか。その意味で信仰心――少なくとも「悪いやつにはバチが当たる」は、有用な概念だとぼくは思う。


2017年2月10日追記

この記事を書いた後にこんな文化人類学的知見を見つけた。

未開社会には武器を伴わない戦争があります。それは、「スピリットウォー(呪詛(じゅそ)」と呼ばれる戦争です。彼らは身内の不幸や災厄は敵の呪詛によるものだと真剣に考えており、相手の髪の毛やたばこの吸い殻を呪詛する相手に見立てて、「作物が不作に終わるように」「壊滅するように」といった非常に生々しいことを祈ります。呪詛が日常的に行われ、それが原因で戦争に発展することもあります。

人類の争いの歴史とは – 早稲田ウィークリー

呪詛を原始社会における戦争と捉える方向性。なるほどと思った。「バチが当たる」だけじゃなく、それを更に集団で共有して解消してしまうと。引用元では、結果としては戦争へと至ってしまうわけだけど、とはいえやはり「バチが当たる」や「呪詛」のような精神的な緩衝材があることで、暴力や武力的な衝突が抑制されていた可能性を感じる。

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喫煙者たちはどこで道を踏み間違えたのか

禁煙ブームはヒステリックな嫌煙家のせいではない

個人的な嫌煙の理由は臭いからで、それ以上の御託を並べる気もサラサラないんだけど、ことここに至ってもなおヒステリックな嫌煙家たちのせいで嫌煙ブームになった、と揶揄する喫煙者が結構いて、それはあまりにも状況把握がなっていなので、ひとつだけ苦言を呈しておきたいと思う。

「自分はマナー守ってる」という無関心

自分はマナー守ってるんで。喫煙者にマナーの話をすると、決まってそう教えてくれるわけだけど、そのセリフに立ち上る無関心こそが嫌煙ブームを巻き起こした元凶であることになぜ気づかないのだろう。よく考えてほしいのだが、マナーの悪い喫煙者がいれば、当然のごとく喫煙者全体のイメージはぐんぐん下ってゆく。それは巡り巡ってあなたにのイメージにも大いに影響を与えるはずだ。

つまり、もし本当に喫煙できる世界を死守したいならば、喫煙者こそが率先してマナーの悪い喫煙者を断罪せねばならなかったのに、「自分はそういう人たちとは違うから」と斜に構え放置しつづけた挙句、これほど最悪な状況にまで落ちぶれたという自業自得の様相は、もっと理解したほうがよいのじゃないかと思う。

端的に言えば、目的意識の致命的な欠如。これに尽きる。

確かに現状を考えてみれば、大いに同情できるところもないことはない。さはさりながらだ。それ以上に社会モラルに非協力的なまま、自業自得を完遂させた救いようのない集団=喫煙者というのが最終的な感想になってしまう。

喫煙者の二の舞いが至る所に散見される

これと同じような状況は枚挙に暇がない。例えばいま都心部で暴走するピストバイクやママチャリ、自動車でもそれは起きつつある。あのへんも「自分はマナーを守っている」といって外部からの評価に無頓着な人たちばかりだから、遅かれ早かれ同じ轍を踏むことになるだろう。

結局、「自分」の行動だけではなく「自分たち」の評価からぼくたちは逃れられない。集団として生きることを宿命づけられた存在だから当然なのだが、だからこそ、そのイメージに対する敏感さがどうしても必要になってくる。

日本人というブランド、テレビ局、朝日新聞、大阪人、なんでもそうだ。自分はやってないからといって、自分たちの振る舞いを放置するとどうなるのか。そういった巨視的な想像力を働かせる責務が、コミュニティで共に生きる同居人として存在しているのだと思う。

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都構想のおかげでIQが向上した

9年前に一度挑戦したIQテストにたまたま再度挑戦したら、数値がなぜか大幅に向上していた。113→130に。ネットの簡易テストだから数字自体は補正してもらうとしても、以前は解けなかったであろう問題が解けるようになったことは、共有に値する事実だろう。

つまりIQは向上するのだ。

iqtest2007-2016

以前IQテストした時の記事。

お兄ちゃん、お姉ちゃんはIQが高い|Petty MyRepo

10年前と今との大きな違いは知的好奇心の有無で、単純にはその影響なのだと思う。当時とはもう読書量が全く違うから。しかし、その中でも特に最大の関心事はなにかといえば、やはり政治の動向(とりわけ都構想の行方)であったから、ぼくはほとんど確信的にそれこそが正解率向上の決め手だったと思っている。橋下さん・維新の議員さん・政策づくりに携わった役人さん、みんなに感謝せねばならないね。

高度な知性は他者の思考力を誘発する効果さえあるのかもしれない。

都構想のような複雑極まる話を必死で理解しようと努めてきたその一連には、相当な学習効果があったのだろう。情報を受け取り、自らもそのソースへとあたり、さらに反対勢力の反論と突き合わせ、自分なりの結論を導き出す。結論の正誤以上に、そのプロセスこそが論理的思考力を研磨したのかもしれない。

以下がその簡易IQテストのURLです。いまは懐かしFlashコンテンツ。

IQtest.dk
http://iqtest.dk/main.swf

10年間ほとんど変化のない状態で公開されていて本当にありがたかった。お陰で自分の変化に気づくことができた。

問題の内容自体はバージョンアップしているのかもしれないけれど、基本的に論理的思考力の検査に向いた問題で統一されています。制限時間は40分。頭はやはり疲れます。

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