信仰の持つ思考停止の有用性について

宗教が必要とされた理由って、実はとても合理的だったのかもしれない。特に荒んだ時代、モラルの絶望的に低かった時代おいては。

最近事あるごとに炎上しているユーチューバーの狂気的な振る舞いを見ていると、心が荒んでくる。悪質クレーマーを目の前で見ているような嫌悪感で一杯になる。個人的にそういうヤカラが大嫌いだし、できれば世界から消えてほしい。しかし、ぼくに彼らを消去する筋合いなどないし、殺せば殺人でむしろぼくがお縄だし、そんなことはしないのだが、やはり大嫌いという感情を消し去ることは不可能だ。だから願うのだ「罰が当たれ」と。

ぼくは信仰心というのは、実際にはそういった文脈で機能していたのではないかと考えている。

つまり、救いようのない人間に心をとらわれていたら、それは自分のリソースを不毛に消費している意味で無駄だろう。そこで「悪いやつには天罰がくだる」と信じられれば途端にモヤモヤが軽減される。信仰心とは「思考停止」を逆に活用して心を開放する知恵だったのかもしれない。確かに信仰心が行き過ぎれば思考停止も極まるが、程よく活用すれば効果抜群の精神安定剤として機能しうる。

負の激情に心を囚われても良いことはひとつもない。大事なのはなぜそのような状況が起こったのか。問題があるとすればその本質へと至り、改善の方法を模索する。その全容からなにを把握し、学習し、自身の生活に役立てればよいのか。その意味で信仰心――少なくとも「悪いやつにはバチが当たる」は、有用な概念だとぼくは思う。


2017年2月10日追記

この記事を書いた後にこんな文化人類学的知見を見つけた。

未開社会には武器を伴わない戦争があります。それは、「スピリットウォー(呪詛(じゅそ)」と呼ばれる戦争です。彼らは身内の不幸や災厄は敵の呪詛によるものだと真剣に考えており、相手の髪の毛やたばこの吸い殻を呪詛する相手に見立てて、「作物が不作に終わるように」「壊滅するように」といった非常に生々しいことを祈ります。呪詛が日常的に行われ、それが原因で戦争に発展することもあります。

人類の争いの歴史とは – 早稲田ウィークリー

呪詛を原始社会における戦争と捉える方向性。なるほどと思った。「バチが当たる」だけじゃなく、それを更に集団で共有して解消してしまうと。引用元では、結果としては戦争へと至ってしまうわけだけど、とはいえやはり「バチが当たる」や「呪詛」のような精神的な緩衝材があることで、暴力や武力的な衝突が抑制されていた可能性を感じる。

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喫煙者たちはどこで道を踏み間違えたのか

禁煙ブームはヒステリックな嫌煙家のせいではない

個人的な嫌煙の理由は臭いからで、それ以上の御託を並べる気もサラサラないんだけど、ことここに至ってもなおヒステリックな嫌煙家たちのせいで嫌煙ブームになった、と揶揄する喫煙者が結構いて、それはあまりにも状況把握がなっていなので、ひとつだけ苦言を呈しておきたいと思う。

「自分はマナー守ってる」という無関心

自分はマナー守ってるんで。喫煙者にマナーの話をすると、決まってそう教えてくれるわけだけど、そのセリフに立ち上る無関心こそが嫌煙ブームを巻き起こした元凶であることになぜ気づかないのだろう。よく考えてほしいのだが、マナーの悪い喫煙者がいれば、当然のごとく喫煙者全体のイメージはぐんぐん下ってゆく。それは巡り巡ってあなたにのイメージにも大いに影響を与えるはずだ。

つまり、もし本当に喫煙できる世界を死守したいならば、喫煙者こそが率先してマナーの悪い喫煙者を断罪せねばならなかったのに、「自分はそういう人たちとは違うから」と斜に構え放置しつづけた挙句、これほど最悪な状況にまで落ちぶれたという自業自得の様相は、もっと理解したほうがよいのじゃないかと思う。

端的に言えば、目的意識の致命的な欠如。これに尽きる。

確かに現状を考えてみれば、大いに同情できるところもないことはない。さはさりながらだ。それ以上に社会モラルに非協力的なまま、自業自得を完遂させた救いようのない集団=喫煙者というのが最終的な感想になってしまう。

喫煙者の二の舞いが至る所に散見される

これと同じような状況は枚挙に暇がない。例えばいま都心部で暴走するピストバイクやママチャリ、自動車でもそれは起きつつある。あのへんも「自分はマナーを守っている」といって外部からの評価に無頓着な人たちばかりだから、遅かれ早かれ同じ轍を踏むことになるだろう。

結局、「自分」の行動だけではなく「自分たち」の評価からぼくたちは逃れられない。集団として生きることを宿命づけられた存在だから当然なのだが、だからこそ、そのイメージに対する敏感さがどうしても必要になってくる。

日本人というブランド、テレビ局、朝日新聞、大阪人、なんでもそうだ。自分はやってないからといって、自分たちの振る舞いを放置するとどうなるのか。そういった巨視的な想像力を働かせる責務が、コミュニティで共に生きる同居人として存在しているのだと思う。

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都構想のおかでIQが向上した

9年前に一度挑戦したIQテストにたまたま再度挑戦したら、数値がなぜか大幅に向上していた。113→130に。ネットの簡易テストだから数字自体は補正してもらうとしても、以前は解けなかったであろう問題が解けるようになったことは、共有に値する事実だろう。

つまりIQは向上するのだ。

iqtest2007-2016

以前IQテストした時の記事。

お兄ちゃん、お姉ちゃんはIQが高い|Petty MyRepo

10年前と今との大きな違いは知的好奇心の有無で、単純にはその影響なのだと思う。当時とはもう読書量が全く違うから。しかし、その中でも特に最大の関心事はなにかといえば、やはり政治の動向(とりわけ都構想の行方)であったから、ぼくはほとんど確信的にそれこそが正解率向上の決め手だったと思っている。橋下さん・維新の議員さん・政策づくりに携わった役人さん、みんなに感謝せねばならないね。

高度な知性は他者の思考力を誘発する効果さえあるのかもしれない。

都構想のような複雑極まる話を必死で理解しようと努めてきたその一連には、相当な学習効果があったのだろう。情報を受け取り、自らもそのソースへとあたり、さらに反対勢力の反論と突き合わせ、自分なりの結論を導き出す。結論の正誤以上に、そのプロセスこそが論理的思考力を研磨したのかもしれない。

以下がその簡易IQテストのURLです。いまは懐かしFlashコンテンツ。

IQtest.dk
http://iqtest.dk/main.swf

10年間ほとんど変化のない状態で公開されていて本当にありがたかった。お陰で自分の変化に気づくことができた。

問題の内容自体はバージョンアップしているのかもしれないけれど、基本的に論理的思考力の検査に向いた問題で統一されています。制限時間は40分。頭はやはり疲れます。

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足立議員のアホ発言の本質は映像を見れば解けてくる

足立議員のアホ発言だが、あれはそんな安易な問題に矮小化してはいけない様々を含んでいる。現政権が熊本地震の対応に追われる中での出来事であるというのも大いに関係している。

できれば4月21日の総務委員会を実際に見返してほしい。そうすれば彼がなぜあれほど語気を荒げたのか、いろいろ感じるところがあると思う。時間がなければ、当該映像最初の質疑者、高井議員の質疑冒頭部分20分と、足立議員の質疑全20分だけでいい。

今回の発言のあらまし

足立さんの今回の問題発言はなぜ起きたか。誤解を恐れず言えば、被災地とその復興のために激務に耐える公務員を思うあまり、ああなってしまったと言っても過言ではない。彼はもともと国家公務員だ。人一倍理解できる部分もあるんだろう。そこにきて防災担当副大臣へ向けて投げつけられた高井議員の心ない質疑。

足立議員は言う。民主や共産、メディアだけが政府与党に好き放題文句を言えて、逆は全く許されないというのはどんな了見なのかと。それは二重基準というのではないのかと。

そうして、言いたくても言えない現政権を代弁するようにして彼は語気を荒げつづけた。そして、それに対して非難の声をあげる野党に言ってみせる。

暴言を吐かれればしっかり非難するくせに、自分たちは暴言吐き放題か民主・共産。このように都合よく二重基準を放置している野党議員など議員の資格はない。議員に悖ると。

全くその通りじゃないか。

腹の虫が収まらない民進党

もう分かったと思うが、今回の一件はアホ発言ではなく、どちらかと言えばど正論による皮肉の全容に対して、民進が苛立っているというのが正しい。もっとも、これほど問題化したのは、明日投開票を迎える京都3区の補選に向けてのネガティブキャンペーンの意味合いが強いわけだが……。

さらに、彼はこうも提案している。「もう一度ちゃんと規律を作り直しましょう」と。もっと公平な国会にしましょうと。野党が文句や誹謗をするなら、与党側だってしていいはずだし、しないならば両者ともしない。それが公平なルールってもんじゃないかと。

彼の発言のなにが間違っているのか、ぼくにはそれがわからない。むしろ高度なアイロニカルな論点として完成しているではないか。

足立さん負けるな、あなたは辞めちゃダメだ

ここまで読んでくれた方には、多少なりとも伝わっているはずだが、彼は間違ったことを言っているわけではない。むしろ彼の発言を間違っていると指摘する議員の方が間違っている。それは「公平」の意味を理解し、また国会議員の役割を理解できる知性さえ備わっていれば判断できることだ。

足立さん負けるな。彼は次期選挙で自分は落ちるだろうと自虐する。嫌われちゃってるからと。あなたはいてくれないとダメだ。

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なぜ日本政府はテロリストに身代金を払ってはいけないのか

中東での邦人ジャーナリスト誘拐事件が取り沙汰され、それに呼応して「テロリストの要求どおり身代金を払え」という政府非難を展開する声がチラホラと散見される。人命が第一だと。確かに邦人を救いたいという気持ちは分かる。しかし、そのロジックはあまりにも軽率すぎる。

勘違いしてはいけないのは、日本政府は人命を第一に考えている。むしろ、だからこそ身代金を払えないのだ。

他国を例にあげれば、非公式に要求に応じている国もあるという話もきかれる。しかし、このテーマにおいて、日本は無闇に欧米諸国と比べることはできない。なぜなら、日本には極めて特殊な憲法があるからだ。自ら武力を縛り付けている日本は、外国と同様の軍事行動がそもそもできないという弱みを抱えている。

その上でさらに身代金を払う国だと示してしまえば、それはテロリストたちに対して極めて安全にお金を得られる手段を提示することになってしまう。つまり「良いカモがここにいるぞ」と自ら喧伝しているのと同じ。それは邦人誘拐が今まで以上に横行しかねない危険性に直結している。

日本人の総合的な安全が将来にわたって長く脅かされかねないそのような一手を、日本政府が選択できるはずがない

身代金を払うべきだと言い切れる人は、以上の点についてよくよく考えてみてほしい。「北朝鮮による邦人拉致」を忘れてしまったのだろうか。これほど明確な国家的犯罪が、未だになぜ未解決のままなのか、もう一度よく考えたほうがいい。

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«維新の「身を切る改革」を批判する人間にはこう反論しよう