記者会見は現代版ギロチンなのだな

日大アメフト部の記者会見を見て、これまで何度も繰り返されてきた記者会見と同様の違和感を感じていた。

メディアや記者はなぜこれほど正義の使者を気取り、疑似裁判のようなことをするのだろう。チャットでは野次馬と揶揄してあまりある視聴者が記者たちの詰問に熱狂している。「いいぞ、もっとやれ」と。

メディアや視聴者にまで経緯を説明せねばならない正統な理由などありはしないのに、なぜそれほど当然のようにして罪を背負った人間を血祭りにあげることをいとわないのだろう。

状況をしばらく静観していて、ひとつ腑に落ちたことがある。

これはフランスでいうところのギロチンなのだな。首を切り落とされる罪人をエンターテイメントとして消費していたあの状況が、日本においてはこのようにして現存していて、民衆のストレス発散にひと役買っている。

ずっと抱いてきた違和感の正体はそこにあったのだろう。閉塞した社会/権力者への鬱憤を和らげる装置が、こうして今日にも引き継がれている。

このあまりに不健全な状況は、だから民衆の憤懣がさらに高まって、記者会見(公開処刑)くらいではとても解消できなくなるまでつづくに違いない。末期になればなるほどますます下劣に苛烈になることもほぼ確実視できてしまう。そしていまはかなり末期の方だろう。

これから先、テレビ報道とそれを消費する「正義をかたる乱暴者」にはできる限り近づきたくないなと心の底から思う。

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Aimerの愛嬌にやられた

かなり遅いのかもしれないけれど、最近Aimerにハマっている。特にこのONEという曲。めちゃくちゃ愛嬌があります。大好きすぎる。

西野カナも愛嬌ある

で、気づいたんだけど、西野カナが好きだった理由も愛嬌なんだきっと。「愛嬌が大事」というのは女性の魅力としては鉄板といっていいけど、音楽にそれを見つけられたのはなんともいえない発見だった。

このカテゴライズ――あるいは抽象的な感性の自覚は、興味のアンテナが更に広がりそうな予感を感じる。これからは「愛嬌がある曲」で情報をマッピングしてゆける。

それはともかくとして西野カナはもはや声に愛嬌があるレベルじゃないか

愛嬌ある曲ってどれだよ

ああ、いきものがかりなら「キミがいる」はまさに愛嬌ある曲かも。

あと、阿部真央のロンリー。サビの愛嬌はんぱない。

あ、JUDY AND MARYとか。

行き過ぎると「ゆうゆ - -3℃」あたりまでいっちゃうのか。

つまりはおニャン子クラブはどうだろう。

いや、なんかちょっと方向性がおかしくなってきた。あまり見せてはいけないところが顔をのぞかせている。もう少しちゃんと掴みきるまで寝かせようかな。

ともかくAimer良い

ちなみに、Aimerではカタオモイもめちゃくちゃ良い。

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低質な質問に上質な回答を望む人々の無理解について

質問が誤っていた場合、それに明朗に答えることは難しくなる。期待した答えが返ってこないときには、そうした可能性も考えてみる必要がある。

先日、ドラマ「逃げ恥」について未見の方から「ハッピーエンドだったの?」と質問を受けたのだが、ぼくはそれに明朗に答えられなかった。

望まれた回答に落とし込めない

「逃げ恥」が結末を語り合うような作品ではないことを説明しようとしても、質問者はハッピーエンドかどうかに簡潔に答えてほしいらしく、こちらの話を聞く用意がない。回答を何度か制止されて観念し「ハッピーエンドだったと思います」と言ったが、どうにも収まりが悪い。特に大好きな作品を軽率な言葉で片づけねばならないことにいいようのない屈辱を感じて、だからつい余計な付言をしてしまった。「見なきゃ分からないことがたくさんある。見る気もないのに関わってこないでほしい」と。そういえば都構想の時も、府外の人にこんなふうに吐く機会が増えていた気がする……

そこで枕の言葉が浮かぶわけだ。

質問が誤っていた場合、それに明朗に答えることは難しくなる。

まさにそういう状況だった。

野党の質疑に同質性を思った

見た人になら分かるはずだが、逃げ恥の最終話は「ドラマが終わっても物語は続いていく」という含みを持たせた――いわば往年の恋愛ドラマへの皮肉をきかせたものだった。あの作品は一事が万事そんな感じで、現代社会の固定観念に疑義を表明する世界観全体に大きな魅力があった。故に「結末が幸か不幸か」という紋切り型の発想自体が適当ではないのだが、そういう説明を受け付けてくれないのだからやりようがない。

この不毛さにぼくは既視感を感じていた。

ああ、これは国会だ。野党の質疑だ。希望する回答でない限り聞く耳を持たない姿勢。なんとか誠実に答えようと試みても結局は徒労に終わる。寛容さの不在。太陽と北風でいえば北風。答弁する閣僚や官僚はきっとこういう感覚なのだなと思えたことは、今回の最大の収穫であった。

最後に

いまは文章化に際して思考を整理しているから筋が通っているけれども、質問を投げかけられた当初はこれほど簡潔には述べられなかったから、当時のぼくの解答には誰もがもどかしさを感じた可能性は高い。はやく「Yes or No」で答えてくれよと。

であれば、やはり自身の当意即妙さを向上させることが最も現実的な改善策なのであろうか。それができればコミュニケーションの幅もぐっと広がって、無理解は最小化し、理解を最大化できるのかもしれない。

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理想主義者に向けられる哀れみの正体

最近は特に理想主義者に対する風当たりが強まっているように思う。ぼくたちは今、簡単に未来を思い描けるだろうか? 昭和の頃に思い描いた21世紀は夢のような世界だっただろう。そのような夢見がちな見方は、いまあまり人気がなくなってしまった。

理由は種々あるだろう。世界全体の先行きが不透明になって特定の方向性が見えづらいとか、あるいは日本経済が長く停滞し、目先の生活でいっぱいいっぱいだとか――いや、そもそも実際、夢のような21世紀はこなかった。その落胆なのか……

ともかく、いま理想的な話をすれば「非現実的だ」「具体的にどうするんだ」と非難されるのが関の山だろう。これは「日本的リベラル」への不人気と相関しているようにも見受けられるが、なぜこれほど非難される存在になってしまったのか?

その正体を解きほぐすための示唆を提供できれば幸いに思う。

現実的な理想主義者たれ

最初に結論をいえば、理想は決して悪いものではない。むしろとても大事な「長期的な視点」を提供できる。しかし、それに固執するから具体的な道筋が軽視され、バランスが悪くなってしまう。できる限り「現実的な理想主義者」として考えようよ、ということになる。

登山隊の中の現実くんと理想くん

理想主義者と現実主義者の違いは、例えば山頂を目指す登山隊としてみると分かりやすい。

どちらも山頂を目指そうという目的は同じだ。そこからまず現実主義者は一歩ずつ歩むことを優先する。現状で最善と思えるルートを見定め、歩み始めようと主張する。

一方、理想主義者はそれを認めない。ルートが絶対に正しいとは言い切れないし、道半ばで命を落とすこともありえるからだ。だから現実主義者の案に反対する。それでは一歩も先へは進まないのだが、彼らは例えば瞬間移動装置のようなものを空想し、たったの一歩で山頂へ到達するような手段を欲する。確かにそれがもっとも安全だが、残念なのは瞬間移動装置を発明しようとはしないし、ヘリコプターのような妥協案を提案することもしない。

つまり、山頂へ至る歩数も困難さも考慮せず、あるいはまた新技術や画期的な解決策を導入してパラダイムシフトをもたらそうともせず、ただ「山頂に登りたい」と繰り返すのみになってしまう。それでは状況はなにも進展しない。もはや周りがみな気づいているというのに、本人だけが気づかずに相変わらず同じ駄々をこねつづけている。

まったく何やってんだよ。

これが理想主義者に向けられる哀れみの正体である。

現実主義にも欠点がある

ただし、逆に、理想をもたぬ現実主義者もまた、場当たり的に目先の状況に対応するだけになりやすい。山頂を確認し直したり、最適なルートを再考するといった長期視点が欠如しがちだからだ。だから気づいたときには山頂を見失うどころか、深い樹海に迷い込み、もはや引き返せぬ袋小路へと至る危険さえある。

良き塩梅で夢を見よう

以上のことから導き出せる良き塩梅のバランスとは、現実的な理想主義者たること――理想的に目的・目標を見定め、現実的な手段を考え実践すること。

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漢字が書けない人を嘲笑うのは時代錯誤

福士は12日放送の『ネプリーグ』(フジテレビ系)に出演し、漢字の「細心」が書けずに撃沈。ネット上では「福士くんバカだったのか」「もともと賢いイメージはない」と話題になってしまった。

新垣結衣以上に「バカ?」福士蒼汰の「不倫疑惑」「日本語力のなさ」がやばい......熱愛報道も影響で世間厳しめ | ギャンブルジャーナル | ビジネスジャーナル

こんなゴシップ記事をとりあげるのも気がひけるのだが、最近たびたび見かける「漢字が書けないだけでバカ認定」は、あまりにも時代錯誤が過ぎるので、その点について指摘してみたいと思う。こういった無理解で無駄に傷つく人が少しでも減ることを祈って。

漢字は「書く」ものから「変換する」ものに変わった

かつての時代なら、この事例は即バカ認定で問題はなかったかもしれない。ただし、いまはデジタル化してすでに20年が経つ。そして漢字は「書く」ものから「変換する」ものに変わった。だから、書けないからと言って読めない/意味を知らない/打ち込めないとは限らない。PCやスマホで文章をよく書く若い人ほど、必然的にその傾向は高まるだろう。

そうした現状にあって、果たして正確に漢字で書けなければならない正当な理由とはなんであろうか。少なくとも書けないからといってバカと言いきることは不可能だ。

では、漢字が書けない=学力がない、は正しいか?

それも正しくはない。確かに学力とは義務教育過程における履修の程度を一定以上包含するから、小学校で習っているはずの「細心」が書けないのを「問題だ」と認識することは可能だ。

しかし、時代が激変してしまった現状で学力とはそもそもなんであろうか。漢字を暗記しているということは暗記力があり、ゆえに学力があるという判断基準は確かにありえる。しかし、いまの時代に暗記力があるだけで果たして学力があると言いきれるだろうか。

いまや記憶能力や演算能力で人間はPCにまったく太刀打ちできなくなった。それはこの半世紀余りの急激な変化だ。いまはそのPCやデジタルの長所を使いこなし、問題を解決したり、新しいものを創造したり、自分の生活に役立てる基礎的な能力こそが、「学力」というのじゃないのだろうか。

福士くんはバカではない

福士くんにどの程度の学力があるのかをぼくは判断できないけれども、少なくとも現代的に再考した学力に則して考えれば、漢字が書けないだけでバカとはとても断定できない。

そもそも彼は俳優として自立し、実績を残している。少し考えてみれば分かるはずだが、セリフを覚えるのには一定以上の暗記力が必要だし、役になりきるためには一定以上の教養を持ち、新たな知見を学び取ろうとする能動的な好奇心がなければならない。しかも、役者は現状デジタルで代替不可能な職業であり、そこで個性を活かせている。その確固たる事実をまったく斟酌せず、ひとつふたつ漢字が書けないくらいで、彼をなぜゆえバカ認定できるのか、ぼくにはさっぱり理解できない。

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