理想主義者に向けられる哀れみの正体

最近は特に理想主義者に対する風当たりが強まっているように思う。ぼくたちは今、簡単に未来を思い描けるだろうか? 昭和の頃に思い描いた21世紀は夢のような世界だっただろう。そのような夢見がちな見方は、いまあまり人気がなくなってしまった。

理由は種々あるだろう。世界全体の先行きが不透明になって特定の方向性が見えづらいとか、あるいは日本経済が長く停滞し、目先の生活でいっぱいいっぱいだとか――いや、そもそも実際、夢のような21世紀はこなかった。その落胆なのか……

ともかく、いま理想的な話をすれば「非現実的だ」「具体的にどうするんだ」と非難されるのが関の山だろう。これは「日本的リベラル」への不人気と相関しているようにも見受けられるが、なぜこれほど非難される存在になってしまったのか?

その正体を解きほぐすための示唆を提供できれば幸いに思う。

現実的な理想主義者たれ

最初に結論をいえば、理想は決して悪いものではない。むしろとても大事な「長期的な視点」を提供できる。しかし、それに固執するから具体的な道筋が軽視され、バランスが悪くなってしまう。できる限り「現実的な理想主義者」として考えようよ、ということになる。

登山隊の中の現実くんと理想くん

理想主義者と現実主義者の違いは、例えば山頂を目指す登山隊としてみると分かりやすい。

どちらも山頂を目指そうという目的は同じだ。そこからまず現実主義者は一歩ずつ歩むことを優先する。現状で最善と思えるルートを見定め、歩み始めようと主張する。

一方、理想主義者はそれを認めない。ルートが絶対に正しいとは言い切れないし、道半ばで命を落とすこともありえるからだ。だから現実主義者の案に反対する。それでは一歩も先へは進まないのだが、彼らは例えば瞬間移動装置のようなものを空想し、たったの一歩で山頂へ到達するような手段を欲する。確かにそれがもっとも安全だが、残念なのは瞬間移動装置を発明しようとはしないし、ヘリコプターのような妥協案を提案することもしない。

つまり、山頂へ至る歩数も困難さも考慮せず、あるいはまた新技術や画期的な解決策を導入してパラダイムシフトをもたらそうともせず、ただ「山頂に登りたい」と繰り返すのみになってしまう。それでは状況はなにも進展しない。もはや周りがみな気づいているというのに、本人だけが気づかずに相変わらず同じ駄々をこねつづけている。

まったく何やってんだよ。

これが理想主義者に向けられる哀れみの正体である。

現実主義にも欠点がある

ただし、逆に、理想をもたぬ現実主義者もまた、場当たり的に目先の状況に対応するだけになりやすい。山頂を確認し直したり、最適なルートを再考するといった長期視点が欠如しがちだからだ。だから気づいたときには山頂を見失うどころか、深い樹海に迷い込み、もはや引き返せぬ袋小路へと至る危険さえある。

良き塩梅で夢を見よう

以上のことから導き出せる良き塩梅のバランスとは、現実的な理想主義者たること――理想的に目的・目標を見定め、現実的な手段を考え実践すること。

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漢字が書けない人を嘲笑うのは時代錯誤

福士は12日放送の『ネプリーグ』(フジテレビ系)に出演し、漢字の「細心」が書けずに撃沈。ネット上では「福士くんバカだったのか」「もともと賢いイメージはない」と話題になってしまった。

新垣結衣以上に「バカ?」福士蒼汰の「不倫疑惑」「日本語力のなさ」がやばい......熱愛報道も影響で世間厳しめ | ギャンブルジャーナル | ビジネスジャーナル

こんなゴシップ記事をとりあげるのも気がひけるのだが、最近たびたび見かける「漢字が書けないだけでバカ認定」は、あまりにも時代錯誤が過ぎるので、その点について指摘してみたいと思う。こういった無理解で無駄に傷つく人が少しでも減ることを祈って。

漢字は「書く」ものから「変換する」ものに変わった

かつての時代なら、この事例は即バカ認定で問題はなかったかもしれない。ただし、いまはデジタル化してすでに20年が経つ。そして漢字は「書く」ものから「変換する」ものに変わった。だから、書けないからと言って読めない/意味を知らない/打ち込めないとは限らない。PCやスマホで文章をよく書く若い人ほど、必然的にその傾向は高まるだろう。

そうした現状にあって、果たして正確に漢字で書けなければならない正当な理由とはなんであろうか。少なくとも書けないからといってバカと言いきることは不可能だ。

では、漢字が書けない=学力がない、は正しいか?

それも正しくはない。確かに学力とは義務教育過程における履修の程度を一定以上包含するから、小学校で習っているはずの「細心」が書けないのを「問題だ」と認識することは可能だ。

しかし、時代が激変してしまった現状で学力とはそもそもなんであろうか。漢字を暗記しているということは暗記力があり、ゆえに学力があるという判断基準は確かにありえる。しかし、いまの時代に暗記力があるだけで果たして学力があると言いきれるだろうか。

いまや記憶能力や演算能力で人間はPCにまったく太刀打ちできなくなった。それはこの半世紀余りの急激な変化だ。いまはそのPCやデジタルの長所を使いこなし、問題を解決したり、新しいものを創造したり、自分の生活に役立てる基礎的な能力こそが、「学力」というのじゃないのだろうか。

福士くんはバカではない

福士くんにどの程度の学力があるのかをぼくは判断できないけれども、少なくとも現代的に再考した学力に則して考えれば、漢字が書けないだけでバカとはとても断定できない。

そもそも彼は俳優として自立し、実績を残している。少し考えてみれば分かるはずだが、セリフを覚えるのには一定以上の暗記力が必要だし、役になりきるためには一定以上の教養を持ち、新たな知見を学び取ろうとする能動的な好奇心がなければならない。しかも、役者は現状デジタルで代替不可能な職業であり、そこで個性を活かせている。その確固たる事実をまったく斟酌せず、ひとつふたつ漢字が書けないくらいで、彼をなぜゆえバカ認定できるのか、ぼくにはさっぱり理解できない。

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タバコとお酒の命運を分けたマナーの重要性

喫煙者への風当たりが強まるにつれて、「タバコを非難するならお酒も非難しろ」という声も日増しに高まっているけれども、そもそも、現状すでにお酒のほうが肩身が狭い可能性は考えないのだろうか。

例えば勤務中のタバコ休憩は当然のようにして許されるのに、お酒は許されていない。許されていないというか、マナーとして、勤務中にお酒を飲む人はそう多くない。「ランチに一杯」すら敬遠する人が大半だろう。我慢できないとしたら、それは嗜好ではなく中毒だからだ。

タバコとお酒を分かつもの

正確に現状を把握するなら、タバコよりもお酒の方がよほど場をわきまえてきたと言った方が良さそうだ。それに気づかずに酒とタバコを紐付け過ぎれば、予想外の展開になりかねない。

そう、こんな具合で。

アホ「タバコ禁止ならお酒も禁止だろ!」

社会「そんなにお酒と一緒の扱いがいいなら、勤務中にタバコ吸えなくていいよね」

アホ「え」

社会「だって勤務中さえ我慢できないとか、それニコチン中毒じゃん。これからは勤務時間外のみにしてね」

アホ「え、え」

社会「当然、昼間っから屋外で吸うのも止めてね。アル中同様みっともないから」

アホ「……」

まさにブーメラン状態。

人間社会の普遍的な法則として「マナーで対処できない場合、それはルールになる」というものがある。より近代的に言えば「法的拘束力を与えられる」。お酒は場をわきまえる/マナーとして了解することで、社会との良好な関係を保ってきたが、タバコはそれでは対処しきれなかった。だから法的拘束力を有する世界規模のルールになろうとしている。タバコとお酒を決定的に分かつのはそこだ。

マナーやルールを常に評価する必要性

ぼくたちはよくよく注意せねばならない。「いままでの社会で許されていた」からといって「それに正当性があるかかどうか」は決して判断できない。「常識」や「倫理観」は社会状況が変わるのに連動して刻々と変化してゆくものであるし、だからこそ、法律だって常に更新できるように設計されている。

それを見過ごしてしまえば、いまのタバコのように、自分たちがよほど優遇されていた事実に思い至ることができず、延々と墓穴を掘るハメになる。「お酒も禁止」論はその筆頭といっていいだろう。

個人的に願うのは、“一部の足手まとい”の投げるこのブーメランが、首の皮一枚でつながる喫煙者たちの喉元に、さらなる致命傷を与えないことだけ。

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「最小の少数派とはあなた自身である」という民主主義の根幹について

少数勢力の政治団体はよく「わたしたち少数派の意見も聞け。それが民主主義だ」とのたまう。ぼくにはそれがひどく滑稽に思えてならない。

そもそも少数少数というが、突き詰めるなら我々は一人ひとりが最小単位の少数派であって、みながそれぞれに主張を持っている。民主主義というのは、その個々人が集まって、どのようにして集団社会を運営してゆくかを考え、実行する仕組みだ。それを理解しているなら、少数であろうとなかろうと、自分の主張で大勢を説得せねばならない。社会の行き先を決めようというのに、誰も説得できない個人の主張に従うことなどできっこないからだ。

もし、個人個人の主張のひとつひとつを聞き、尊重し合う政治がいいというなら、それは有り体に言えば「いつまでも何も決まらない政治」が生まれるだけだ。政治の枠組みにおいては個々人の主張を尊重するには限界がある。だからこそ期限を定め、より大勢を納得させられるアイディアに決定して先へ進もう。これが民主主義の根幹であり、それゆえに「言論の自由」だけは制限してはならないということになっている。

それを理解していれば、政治団体やそれに所属した議員から「わたしたち少数派の意見を聞け」などという文句は出てこようはずがない。群れることができている時点で十分に多数派であるし、さらに支持を拡大して政権与党(多数派)にならねば理想の社会だって実現できない。つまり、中途半端な多数派だから個々人から煙たがられ、中途半端な多数派だから社会変革も達成できない。これを滑稽といわずしてどう形容すればよいのだろう。

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信仰の持つ思考停止の有用性について

宗教が必要とされた理由って、実はとても合理的だったのかもしれない。特に荒んだ時代、モラルの絶望的に低かった時代おいては。

最近事あるごとに炎上しているユーチューバーの狂気的な振る舞いを見ていると、心が荒んでくる。悪質クレーマーを目の前で見ているような嫌悪感で一杯になる。個人的にそういうヤカラが大嫌いだし、できれば世界から消えてほしい。しかし、ぼくに彼らを消去する筋合いなどないし、殺せば殺人でむしろぼくがお縄だし、そんなことはしないのだが、やはり大嫌いという感情を消し去ることは不可能だ。だから願うのだ「罰が当たれ」と。

ぼくは信仰心というのは、実際にはそういった文脈で機能していたのではないかと考えている。

つまり、救いようのない人間に心をとらわれていたら、それは自分のリソースを不毛に消費している意味で無駄だろう。そこで「悪いやつには天罰がくだる」と信じられれば途端にモヤモヤが軽減される。信仰心とは「思考停止」を逆に活用して心を開放する知恵だったのかもしれない。確かに信仰心が行き過ぎれば思考停止も極まるが、程よく活用すれば効果抜群の精神安定剤として機能しうる。

負の激情に心を囚われても良いことはひとつもない。大事なのはなぜそのような状況が起こったのか。問題があるとすればその本質へと至り、改善の方法を模索する。その全容からなにを把握し、学習し、自身の生活に役立てればよいのか。その意味で信仰心――少なくとも「悪いやつにはバチが当たる」は、有用な概念だとぼくは思う。


2017年2月10日追記

この記事を書いた後にこんな文化人類学的知見を見つけた。

未開社会には武器を伴わない戦争があります。それは、「スピリットウォー(呪詛(じゅそ)」と呼ばれる戦争です。彼らは身内の不幸や災厄は敵の呪詛によるものだと真剣に考えており、相手の髪の毛やたばこの吸い殻を呪詛する相手に見立てて、「作物が不作に終わるように」「壊滅するように」といった非常に生々しいことを祈ります。呪詛が日常的に行われ、それが原因で戦争に発展することもあります。

人類の争いの歴史とは – 早稲田ウィークリー

呪詛を原始社会における戦争と捉える方向性。なるほどと思った。「バチが当たる」だけじゃなく、それを更に集団で共有して解消してしまうと。引用元では、結果としては戦争へと至ってしまうわけだけど、とはいえやはり「バチが当たる」や「呪詛」のような精神的な緩衝材があることで、暴力や武力的な衝突が抑制されていた可能性を感じる。

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