電子書籍にない本の利点「全体像が直感できるところ」

電子書籍の欠点は情報の総量を直感的に把握しづらいところかもしれない。

実体を持つ本であれば、その厚さや大きさ、重さによって全体の分量を瞬時に把握できる。それに比べれば、電子書籍は情報量や書籍内での位置関係を感覚的に把握しづらい。

この違いは結構大きい。

例えばGoogleマップを見る時、はじめから拡大された交差点を見せられても、自分の位置も目的地も特定できない。そういう時、少し引いて自分と目的地の位置関係を特定したくなるだろう。全体像が見えるところまで高度を上げ、また自由に拡大縮小を繰り返してゆく。情報を読み込む作業は、われわれが思ってる以上に物理空間上の体感にひもづけて行われている。

本であってもそれは変わらない。具体的な興味を抱くためにも、また理解を深めるためにも、まずは全体像が把握できなければならない。自分はどの程度の総量の情報にいま向き合っているのか。そのどのあたりの情報を読み込んでいるのか。そのヒントが電子書籍にはない。確かに目次はあるし、読み切るまでの参考時間も数値化されているが、本の実体が持つ視覚的・物質的な情報密度には到底かなわない。

逆にいえば、もしこのあたりの欠点を克服する電子書籍がでてきたら、「本」という媒体はいよいよ終わりかもしれない。

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Aimerと元気ロケッツの接点は作曲者

先日、AimerのONEが愛嬌ありすぎたまらんと発狂したんだけど、この曲のアレンジにどこか懐かしさを感じて少し調べてみたら、元気ロケッツにも楽曲提供している方でした。

百田留衣 - Wikipedia

元気ロケッツの例えばこれ。Smile。やっぱり大好き。

「Aimer - ONE」も前回はライブだったから薄まっていたけど、CD音源だとなお一層デジタル感が増すね。個人的にONEはライブ音源の塩梅が好きだなあ。

とりあえず百田さんの楽曲、元気ロケッツの方もめっちゃ良いのでいくつか貼っておきます。

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記者会見は現代版ギロチンなのだな

日大アメフト部の記者会見を見て、これまで何度も繰り返されてきた記者会見と同様の違和感を感じていた。

メディアや記者はなぜこれほど正義の使者を気取り、疑似裁判のようなことをするのだろう。チャットでは野次馬と揶揄してあまりある視聴者が記者たちの詰問に熱狂している。「いいぞ、もっとやれ」と。

メディアや視聴者にまで経緯を説明せねばならない正統な理由などありはしないのに、なぜそれほど当然のようにして罪を背負った人間を血祭りにあげることをいとわないのだろう。

状況をしばらく静観していて、ひとつ腑に落ちたことがある。

これはフランスでいうところのギロチンなのだな。首を切り落とされる罪人をエンターテイメントとして消費していたあの状況が、日本においてはこのようにして現存していて、民衆のストレス発散にひと役買っている。

ずっと抱いてきた違和感の正体はそこにあったのだろう。閉塞した社会/権力者への鬱憤を和らげる装置が、こうして今日にも引き継がれている。

このあまりに不健全な状況は、だから民衆の憤懣がさらに高まって、記者会見(公開処刑)くらいではとても解消できなくなるまでつづくに違いない。末期になればなるほどますます下劣に苛烈になることもほぼ確実視できてしまう。そしていまはかなり末期の方だろう。

これから先、テレビ報道とそれを消費する「正義をかたる乱暴者」にはできる限り近づきたくないなと心の底から思う。


2018年5月26日追記

日大アメフト部に関して素晴らしい記事があったので追記。過去の大学による不祥事とそれに対する対応の違いを主軸に再発防止や教育機関としてのあり方を淡々と説いていくスタイル。再発防止に向けてメディアにできることにとても自覚的で、冷静に状況を捉えられてもいる。ジャーナリズムってこういうだよなあ。ありがたい。

日大はなぜ失敗したか。東大、早慶、関学…大学不祥事対応に見る成功例と失敗例|BUSINESS INSIDER

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Aimerの愛嬌にやられた

かなり遅いのかもしれないけれど、最近Aimerにハマっている。特にこのONEという曲。めちゃくちゃ愛嬌があります。大好きすぎる。

西野カナも愛嬌ある

で、気づいたんだけど、西野カナが好きだった理由も愛嬌なんだきっと。「愛嬌が大事」というのは女性の魅力としては鉄板といっていいけど、音楽にそれを見つけられたのはなんともいえない発見だった。

このカテゴライズ――あるいは抽象的な感性の自覚は、興味のアンテナが更に広がりそうな予感を感じる。これからは「愛嬌がある曲」で情報をマッピングしてゆける。

それはともかくとして西野カナはもはや声に愛嬌があるレベルじゃないか

愛嬌ある曲ってどれだよ

ああ、いきものがかりなら「キミがいる」はまさに愛嬌ある曲かも。

あと、阿部真央のロンリー。サビの愛嬌はんぱない。

あ、JUDY AND MARYとか。

行き過ぎると「ゆうゆ - -3℃」あたりまでいっちゃうのか。

つまりはおニャン子クラブはどうだろう。

いや、なんかちょっと方向性がおかしくなってきた。あまり見せてはいけないところが顔をのぞかせている。もう少しちゃんと掴みきるまで寝かせようかな。

ともかくAimer良い

ちなみに、Aimerではカタオモイもめちゃくちゃ良い。

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低質な質問に上質な回答を望む人々の無理解について

質問が誤っていた場合、それに明朗に答えることは難しくなる。期待した答えが返ってこないときには、そうした可能性も考えてみる必要がある。

先日、ドラマ「逃げ恥」について未見の方から「ハッピーエンドだったの?」と質問を受けたのだが、ぼくはそれに明朗に答えられなかった。

望まれた回答に落とし込めない

「逃げ恥」が結末を語り合うような作品ではないことを説明しようとしても、質問者はハッピーエンドかどうかに簡潔に答えてほしいらしく、こちらの話を聞く用意がない。回答を何度か制止されて観念し「ハッピーエンドだったと思います」と言ったが、どうにも収まりが悪い。特に大好きな作品を軽率な言葉で片づけねばならないことにいいようのない屈辱を感じて、だからつい余計な付言をしてしまった。「見なきゃ分からないことがたくさんある。見る気もないのに関わってこないでほしい」と。そういえば都構想の時も、府外の人にこんなふうに吐く機会が増えていた気がする……

そこで枕の言葉が浮かぶわけだ。

質問が誤っていた場合、それに明朗に答えることは難しくなる。

まさにそういう状況だった。

野党の質疑に同質性を思った

見た人になら分かるはずだが、逃げ恥の最終話は「ドラマが終わっても物語は続いていく」という含みを持たせた――いわば往年の恋愛ドラマへの皮肉をきかせたものだった。あの作品は一事が万事そんな感じで、現代社会の固定観念に疑義を表明する世界観全体に大きな魅力があった。故に「結末が幸か不幸か」という紋切り型の発想自体が適当ではないのだが、そういう説明を受け付けてくれないのだからやりようがない。

この不毛さにぼくは既視感を感じていた。

ああ、これは国会だ。野党の質疑だ。希望する回答でない限り聞く耳を持たない姿勢。なんとか誠実に答えようと試みても結局は徒労に終わる。寛容さの不在。太陽と北風でいえば北風。答弁する閣僚や官僚はきっとこういう感覚なのだなと思えたことは、今回の最大の収穫であった。

最後に

いまは文章化に際して思考を整理しているから筋が通っているけれども、質問を投げかけられた当初はこれほど簡潔には述べられなかったから、当時のぼくの解答には誰もがもどかしさを感じた可能性は高い。はやく「Yes or No」で答えてくれよと。

であれば、やはり自身の当意即妙さを向上させることが最も現実的な改善策なのであろうか。それができればコミュニケーションの幅もぐっと広がって、無理解は最小化し、理解を最大化できるのかもしれない。

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